展覧会を前に、作品とわたしの時間と距離のお話をしたいと思います。
わたしは作品をつくることで、自分自身のことを少しずつ知っていき、分析とまではいかなくても、自分を確認できる作業でもあると感じています。
でもそれは、完成したからといってすぐにわかることではないのです。
ある時ひらめいた発想から、構想、制作、と時間をかけてつくっていってひとつの作品が完成しますが、その段階ではまだ、なぜ自分がその作品をつくったのかということは完全には解決されません。
もちろん、それまでの過程で絶対的な何かを感じながら進んでいるのは確かなのですが、ほとんどがひらめきを頼りにした感覚で、感じるまま気の向くまま手の動くままで方向を変えながら進みます。自分にとって気持ちのいいかたちのバランスや、いろのバランス、意味のバランス、質感のバランス、距離のバランス、空間のバランスなどを追い求めていくことに体中の全神経を傾け、すべてがぴたりとくる瞬間を探して、自分の気持ちのいいところを信じてつくります。
得体の知れないものを信じることは不安にもなりますが、そこがいちばん大事だと思うのです。その感覚は、とても言葉では言い表せないものです。(だから、作品のことを聞かれたとき困ることもあります。そんなときは、なんとか言葉にしてみますが、どうも違う、うまく言えない、と悩みます。たとえうまく言えたとしても、その言葉だけで作品を観てほしくないという想いがあり、自分の言葉に対して自己嫌悪に陥ってしまいます。)
そういう感覚的な実感とは別に、なぜ自分がその作品をつくったのかという根本的な理由や意味を考えることによって、自分ではわからない内在的な自分自身を知ることができるのは作品ができてからだいぶ時間が経ってからのことだと思います。
作品を完成させたとき、わたしは初めて作品から外に出て、目の前の作品に向き合い、そこでまた新しい何かを感じて、その延長線上を進みます。生み出した作品はわたしから離れて大海原へ航海をはじめます。わたしはそこで作品と全く離れるわけではなく、上空から作品であるその船と、それをとりまく多くの波を見下ろし、近づいたり離れたり忘れたり思い出したりしながらそれの持つ意味、もしくは意味を持たない意味を考え続けます。その旅は、穏やかなときもあれば嵐のようなときもあります。そんな航海のような時間を過ごし続け、一年後や五年後、十年越しでわかることもあります。誰かに言われてわかることもあります。
死ぬまでわからないこともきっとあると思います。
わかったときは、ああそうだったのかと涙があふれて、より作品を愛おしく思ったり、時には嫌になったり、自分との関係性を深めていきます。
はじめから答えがわかっているようなものは面白くないなと思います。(こんなことを言うとギャンブルのよう。実際そうかもしれないです。)だから、自分のことさえわからないと感じている日々の中で、いつか知るかもしれない本当の自分や、いろいろな事物を知るため、根拠なくてもどきどきわくわくしながら期待を膨らませつくり続けられるのだと思います。それが良い発見にしろ悪い発見にしろ、自分を知ることによって、まわりもきちんと見えてきます。
私にとって作品をつくることは、自分への問題提議であり、生きて行く手段なのかもしれません。
ひとつのひらめきが、過去と未来を知るひとつの手がかりとなっています。
その手がかりを見落とさないように焦らず時間をかけて、わからないけど揺さぶられるなにかを求めてこれからも目に見えるかたちにしていきたいと思います。
というわけで、わからないだらけのお話で、だらだらと同じようなこといってるような、もしかしたらこの文章もわかりにくいかもしれないと思いつつ、けっきょく、言葉って難しい。とにかく、わからないけどなんかいい!っていうのがわたしは好きです。
わたしの口癖は「わからん」です。